岡山後楽園は誰が何のためにつくった?|300年以上続く大名庭園の歴史

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岡山後楽園は誰が何のためにつくった?|300年以上続く大名庭園の歴史

岡山を代表する観光名所、岡山後楽園。

広い芝生、池、茶室、そして園内から望む岡山城。 今では多くの観光客が訪れる場所ですが、 そもそもこの巨大な庭園は、 誰が、何のためにつくったのでしょうか。

歴史をたどってみると、 後楽園は最初から観光のためにつくられた庭ではありませんでした。

その始まりは江戸時代。 岡山藩主のための「やすらぎの場」だったのです。

先に結論|後楽園をつくらせたのは岡山藩主・池田綱政

岡山後楽園をつくらせたのは、 岡山藩2代藩主池田綱政です。

綱政は家臣の津田永忠に築庭を命じ、 1687年(貞享4年)に工事が始まりました。

目的は、藩主が政務の合間を過ごす 「やすらぎの場」をつくること。

約13年をかけて整備が進められ、 1700年(元禄13年)に一応の完成を迎えました。

後楽園をつくった池田綱政とは?

岡山藩主池田綱政のイメージ

後楽園をつくらせた 池田綱政は、 岡山藩2代藩主です。

綱政の父は、 岡山藩主として知られる池田光政。

綱政はその跡を継ぎ、 江戸時代の岡山藩を治めました。

そんな綱政が、 岡山城のすぐ近くにつくらせたのが、 現在の岡山後楽園です。

後楽園は「藩主の庭」から始まった
現在は誰でも訪れることのできる後楽園ですが、もともとは岡山藩主のためにつくられた大名庭園でした。

なぜ後楽園をつくった?

池田綱政が後楽園でくつろぐイメージ

後楽園をつくった大きな目的は、 藩主が政務の合間に過ごすための場所をつくることでした。

今でいうなら、 仕事から離れて景色を眺めたり、 趣味を楽しんだりする場所です。

園内には藩主の居間として使われた 延養亭をはじめ、 能を楽しむための能舞台などもつくられました。

後楽園は単に眺めるためだけの庭ではなく、 藩主が実際に時間を過ごす 「もう一つの生活空間」でもあったのです。

後楽園=藩主のリフレッシュ空間
池田綱政にとって後楽園は、政務を離れて心を休めるための大切な場所でした。

実際に築庭を指揮した津田永忠

津田永忠が後楽園の築庭を指揮するイメージ

池田綱政から後楽園の築庭を命じられたのが、 岡山藩士津田永忠です。

津田永忠は、 後楽園だけを手掛けた人物ではありません。

岡山藩で行われた新田開発や、 洪水から城下町や農村を守るための 百間川の整備など、 大規模な土木事業を指揮した人物です。

後楽園の築庭も、 当時岡山藩が進めていた大規模な土地開発と 深く関係していました。

1687年、後楽園の築庭が始まる

江戸時代の岡山後楽園築庭工事のイメージ

後楽園の築庭が始まったのは、 1687年(貞享4年)。

場所は岡山城の北側、 旭川を挟んだ対岸です。

築庭が始まった頃は、 現在のような完成された庭園が 最初から計画されていたわけではありませんでした。

池田綱政が実際に庭を使いながら、 「ここをこうしたい」 「ここに建物をつくりたい」 といった要望を加え、 少しずつ姿を整えていったとされています。

1687年
池田綱政が津田永忠に築庭を命じ、工事がスタート。

そして1700年(元禄13年)、 現在につながる庭園が 一応の完成を迎えました。

最初の後楽園は今とは違った?

築庭当初の岡山後楽園のイメージ

現在の後楽園と、 池田綱政の時代の後楽園は まったく同じ姿ではありません。

綱政の時代は、 延養亭などの建物の座敷から 庭の景色を眺めて楽しむ要素が強い庭でした。

園内には池だけでなく、 田畑や茶畑なども設けられました。

つまり後楽園は、 人工的につくられた景色だけではなく、 田園風景そのものを庭の景観として楽しむ場所 でもあったのです。

歴代藩主によって変わった後楽園

歴代岡山藩主によって変化する後楽園のイメージ

後楽園は1700年に完成して、 その姿が固定されたわけではありません。

池田綱政の子、 池田継政の時代には、 園内中央に「唯心山」が築かれました。

さらに水路や池が整備され、 庭を歩きながら景色の変化を楽しめるようになります。

こうして後楽園は、 建物から眺める庭から、 歩いて楽しむ「回遊式庭園」としての性格を 強めていきました。

後楽園は何世代にもわたってつくられた庭
一人の藩主が完成させたものではなく、歴代藩主の好みや時代の事情によって少しずつ姿を変えてきました。

最初から「後楽園」ではなかった

御後園から後楽園へ名称が変わるイメージ

実は、江戸時代から 「後楽園」という名前だったわけではありません。

江戸時代には、 「御後園(ごこうえん)」などと 呼ばれていました。

現在の「後楽園」という名称になったのは、 明治4年(1871年)。

池田家によって 「御後園」から「後楽園」へと 名前が改められました。

「後楽園」という名前は明治から
300年以上の歴史がありますが、現在の名称が使われるようになったのは築庭から約180年後のことです。

江戸時代にも一般の人が入れた?

江戸時代の領民が後楽園を楽しむイメージ

藩主のためにつくられた後楽園ですが、 江戸時代から完全な「立入禁止の庭」 だったわけではありません。

許可があれば、 領民が園内へ入ることもできました。

能を好んだ池田綱政は、 自ら舞う姿を人々に見せたこともあったとされています。

また後の藩主たちは、 参勤交代で岡山を留守にしている期間などに 日を決めて庭を公開しました。

藩主だけではなく、 人々と楽しむ場所という一面も すでに江戸時代からあったのです。

池田家の庭から岡山県民の庭へ

明治時代から現在へ受け継がれる岡山後楽園のイメージ

大きな転換点となったのが、 1884年(明治17年)です。

池田家から岡山県へ、 後楽園が譲渡されました。

目的は、この名園を 後世へ残していくことでした。

その後、 1934年の水害や 1945年の岡山空襲によって、 後楽園は大きな被害を受けます。

しかし、江戸時代に残された絵図などをもとに 復旧・復元が進められました。

1952年(昭和27年)には 国の特別名勝に指定。

こうして藩主のためにつくられた庭は、 300年以上の時を越え、 現在では岡山を代表する場所として 多くの人に親しまれています。

岡山後楽園の歴史を時系列で見てみよう

明治時代から現在へ受け継がれる岡山後楽園のイメージ
年代 主な出来事
1687年 池田綱政が津田永忠に命じ、後楽園の築庭を開始
1689年 池田綱政が庭を訪れる
1700年 園地の拡張が終わり、一応の完成を迎える
1720年代〜 池田継政が唯心山やひょうたん池などを整備
1871年 「御後園」から「後楽園」へ改称
1884年 池田家から岡山県へ譲渡され、一般公開
1922年 国の名勝に指定
1934年 室戸台風による水害で大きな被害
1945年 岡山空襲により園内の建物の多くが焼失
1952年 国の特別名勝に指定
現在 日本三名園の一つとして親しまれる

300年以上前の「やすらぎの場」が、今も岡山に残っている

岡山後楽園をつくらせたのは、 岡山藩2代藩主・池田綱政。

その目的は、 政務の合間に心を休める 「やすらぎの場」をつくることでした。

しかし後楽園は、 一度完成して終わった庭ではありません。

歴代藩主によって手が加えられ、 明治には池田家から岡山県へ渡り、 水害や戦災を乗り越えながら 現在まで受け継がれてきました。

いつも何気なく眺めている後楽園の景色も、 その背景を知って歩いてみると、 少し違って見えるかもしれません。

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