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2026年で戦後81年。戦争を直接知る世代が少なくなる中、その記憶を次の世代へ伝える活動が続いています。
倉敷市に住む88歳の諏訪妙子さんも、2026年5月から語り部として活動を始めました。
諏訪さんが伝えているのは、自身が体験した戦争の記憶と、わずか1歳の娘を残して戦地へ向かった母親の物語です。
母を感じられる唯一の形見
大きなリボンに赤十字のマークが付いた帽子。
諏訪さんにとって、母・としさんを感じることのできる大切な形見です。
としさんは日本赤十字社の看護婦で、日中戦争中の1939年に召集されました。当時、諏訪さんはまだ1歳でした。
派遣されたのは、負傷した兵士が運ばれてくる中国・江西省の病院です。
現地で看護にあたりながら、夫へ何度も手紙を送り、幼い娘のことを気にかけていました。
手紙には「妙子は私のことをまだ覚えていますか」「妙子をお願いします」といった母親としての思いがつづられていたといいます。
戦地へ向かってわずか2カ月 28歳で亡くなった母
しかし、としさんは従軍からわずか2カ月後、マラリアと脚気にかかり、28歳の若さで亡くなりました。
幼かった諏訪さんには、母親と触れ合った記憶がありません。
それでも母への憧れは強く、幼い頃から将来の夢を聞かれると「看護婦さん」と答えていたといいます。
いつか母と同じ日本赤十字社の看護婦になる――。それが諏訪さんの夢でした。
水島空襲で感じた戦争の恐ろしさ
母親の死後、父親は再婚し、諏訪さんには妹と弟が生まれました。
ところが終戦間際、父親、弟、義理の母親が相次いで病気で亡くなります。
さらに当時の連島町などを襲った水島空襲を経験しました。
戦闘機から爆弾が落とされる光景を目の当たりにし、戦後もしばらくはB29の爆音を怖く感じていたといいます。
戦争によって諦めた「看護婦」の夢
戦後、諏訪さんと妹を育てたのは、働きながら生活を支えてくれた祖母でした。
しかし、経済的な事情から高校へ進学することができず、母と同じ看護婦になる夢も断念せざるを得ませんでした。
諏訪さんはその時、両親がいないという現実を強く感じたと振り返ります。
中学校卒業後に就職し、その後結婚。2人の息子を育てながら人生を歩んできました。
88歳で語り部に「今だと思った」
戦後81年が経ち、日本では戦後生まれの人が人口の大部分を占めるようになりました。
戦争を体験した人が減少する中、岡山県遺族連盟では講話会などを通じ、戦争の記憶を伝える語り部の育成を進めています。
諏訪さんも2026年5月から語り部として活動を始めました。
「今、私たちが語らなければ戦争を知っている人が少なくなる」
88歳になった今だからこそ、自分の経験を伝えなければならないと考えたといいます。
「これから生まれてくる子供たちにも平和を」
世界では今も戦争や紛争が続いています。
戦争によって母と父を失い、自分の夢も諦めざるを得なかった諏訪さんが次の世代に伝えたいのは、シンプルで強い願いです。
「絶対に戦争はしてはいけない」
子供や孫、そしてこれから生まれてくる子供たちが、平和に助け合って生きられる社会であってほしい――。
母の形見と記憶を胸に、諏訪さんはこれからも自身の経験を次の世代へ語り継いでいきます。
詳しい背景や追加情報については、参照元の記事もあわせてご確認ください。
参照元
※この記事は、公開情報をもとにくらすまが読みやすく整理しています。(確認日:2026/08/14)